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高暮ダム写真

高暮ダム写真(上流部から)

3、強制連行と高暮ダム

 高暮ダムを造る計画は、大正時代からありましたが、実際に工事が始まったのは、1940(昭和15)年です。
 その頃から、日本政府は兵力や労働力を増やすため、大学生も兵士として戦争にかりたてました。中学生や女学生を兵器工場で働かせる政策を進める一方、植民地にした朝鮮からは約70000人、中国からも約40000人の人々を無理やり日本へ連行して、鉱山や危険な工事現場で働かせました。
 1939年には日本石炭連合会が、商工大臣に朝鮮人労働者の雇い入れを要求しています。1938年には朝鮮人の姓名を奪い、日本式の名前に換えることを強制させる「創始改名」を行いました。日本式に名前を換えない者は「非国民」とし、子どもの学校への入学を拒否したり、朝鮮での働き口を閉ざして強制連行の対象者としました。
 強制連行を公然と大規模に行うようになるのは、1939年に作られた法律「国民徴用令」からです。高暮ダムはこうした時代に建設が始まりました。君田村の櫃田は高暮に隣り合った地域ですが、そこにはたくさんの朝鮮人労働者の飯場が作られました。以下、ダムがどのようにしてつくられていったのか、当時の人々の証言を中心に調べてみましょう。

田植え

水没するまで下高暮は二組に分かれて共同で田植えをしていた。

 

高暮の様子1

高暮の様子2

小林和夫さんの家は1941(昭和16)年に高暮小学校下高暮分校教場となった工事が始まると、朝の点呼・訓示に使われたり、下高暮の集会に利用されたりしていた。

(1)土地買収・立ち退きはどのように行われたのでしょう。

 日中戦争の長期化が確実になり、戦時体制の強化が叫ばれ出した1939年に始まったダム計画は、すべてが「戦争に勝つため」「お国のため」ということで反対することは許されず、立ち退きになる君田村櫃田と下高野山村下高暮の人々は、いやおうなく先祖伝来の田畑・家屋・山林を手放さざるを得ませんでした。
 水没したのは下高暮で、戸数45戸・水田29町9反・畑4町8反・山林などで櫃田では戸数7戸・水田5町4反・畑7反。山林200町でした。
 立ち退きの説得には庄原警察署長や県庁の役人が当たり、買収には日本発送電株式会社(以下、略して日発)が当たりました。当時の状況について、下高暮で水没した人たちは次のように話しておられます。
「戦時下の電力不足の解消という国策上のダム建設だけに反対してもダメだという考えが水没住民に強く、反対もほとんどありませんでした」?草谷影正さん?
「説明会には庄原の警察の人がいて、最初から反対なんか、とてもできない雰囲気でした。」-小林一夫さん
「広島電気株式会社と契約したのが、昭和15年1〜2月頃でした。14年の秋頃から、下高暮地区住民は何回も集まって話し合いをしました。私は親父がおったのですが、1〜2回は話し合いに参加しました。交渉は代表者が広島に行って話をしたほうがよかろうということで、村会議員や役場や地元の大地主、7人ぐらいが、広島の広島電気株式会社(その後、電力会社はすべて統合されて日発となる)に行きました。1月の終わりか2月だったように思います。ものすごい雪だったので地区民全員で道踏みをして迎えに出ました。しかし、そのときにはすでに契約をさせられていたんです。一番の大地主が契約させられてしもうていたんで、後の者はついて流れるしかなかったようです。それが向こうの作戦だったかもしれんです。」-草谷影正さん
 道路事情の悪い当時のこと、立ち退きのために家財道具の運搬も大変でした。
「家財の運搬には苦労しました。勤務の明けた奥村組の運転手にドブ酒を飲ませ、日当の他にドブ酒や米を渡して運んでもらいました。」-渡辺三季さん
 家財道具が運び去られると、家は焼かれていきました。「空き家になった家の一軒一軒に火がつけられ、燃えあがったときの光景は生涯忘れられません。」
 こうした話を聞くとき、水没者の方もまた戦争犠牲者なのだということを強く実感します。

高暮ダム着工1

1940(昭和15)年工事着工直後。右側にはすでに搬入道路があり、左側上部に生コン製造基台(ミキサー場)が見える。

 

高暮ダム着工2

コンクリートと砂を混ぜる生コン製造基台
現在の堤堰の対岸にあった。

 

高暮ダム 採石場

現在の朝鮮人犠牲者の追悼碑があるところで、原石山とよばれていた採石場が見える。

(2)強制連行はどのように行われたのでしょう。

「故郷で働いているところへ日本人がやってきて有無を言わさず捕らえられ、船に乗せられた」
「日本から募集人が来て、賃金はこうだ、食べ物はこうだ、2、3年辛抱すれば田の3反か5反が買えるだけの財産が作れる。うまい言葉にだまされて…」
「奥村組は朝鮮から労働者を連れてくるために、元釜山警察署の巡査をしていた朝鮮語のぺらぺらの日本人や、朝鮮人で学校の教員をしていた人間を雇っていて、彼らに騙されて…」
 そして、日本に着くと汽車に乗せられて全国各地の労働現場に送られました。炭鉱・トンネル工事・ダム工事など危険の多い現場に。
 高暮ダムに送られる場合は、十日市駅(現在の三次駅)で降ろされ、駅前で三次警察署長の訓示を受けた後、ホロ付のトラックに乗せられて櫃田や高暮に送り込まれました。
「高暮ダムで請願巡査をしていた有田義人さんは、『昭和18・9年になると軍隊への招集などで労働者がどんどん不足しました。19年の春には新たに200名の徴用労務者が慶尚南道から連れてこられたことがあります。徴用者は日本語も話せず、みんな独身者でした。十日市駅(現在の三次駅)から現地までの輸送は三次警察の責任になっていました。高暮へ着くと新市(上高野山村)の巡査が『今や非常時、日本人、朝鮮人も、同じ日本帝国の国民として区別はない。戦争勝利のため天皇陛下のために骨身惜しまず働け』と訓示していました。連れてきた『集団』は各朝鮮人飯場頭へ配分し彼らだけを別の飯場へ収容することはありませんでした。」と証言しています。
    -「朝鮮人強制連行の記録より」-

ダム工事集合写真1

工事着工後の1941(昭和16)年頃。日発の工事責任者だった斉藤清美(中央)さんの姿がある。ミキサー場の背後に砂やセメントを運んだ索道の基地があった。

 

ダム工事集合写真2

現在の県道側か。背後は鉄線橋

 なお、逃亡を防ぐために目隠しをしてホロ付トラックで輸送していたという証言もあります。連行されてきたときの服装は、黄緑色の国民服・帽子にゲートルを巻き、ズック姿だったようです。
 高暮ダム工事に何人の朝鮮人が働いたのかということですが、証言によると約2000名程度ではないかといわれています。
「私の店から奥村組の配給所へタバコの配給をしていましたが、高暮と神之瀬を合わせてタバコの登録人数は4000人を超えていました。幽霊人口があったかもしれませんが労働者の大半は朝鮮人でしたから2000人はいたと思います。高校生ぐらいの少年もいました」
    -「朝鮮人強制連行の記録より」-

基礎工事

基礎工事

 

懇親会

1943〜4年頃 県道側に移転した分教場前の広場。工事現場で働く家族の懇親会でしょうか?

 

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