工事も現在のような機械は余りなく、朝鮮人がモッコを担ぎ、つるはしを振り上げての作業で、モッコに石を入れ「チンヨ、チンヨ」とかけ声をして運んだ。現在では想像もできない就業状態で、工事の最盛期には朝鮮から連れてこられた若者たちが、慣れぬ作業に耐えかねて逃げ出す者も多く、山伝いに逃げる若者に握り飯をそっと渡してやることも度々あった。逃亡者のあとを飯場の世話役が数人で追いかける。地理にくらい逃亡者たちの大半は捕らえられてつれもどされ、他の者への見せしめとしてリンチがくわえられた。アイゴー、アイゴーと泣き叫ぶ声を、彼等の親たちが聞いたらどんな思いだろうと貰い泣きすることも1度や2度ではなかった。
工事は大量の砂やセメントを必要としたが、とても道路でまかないきれる量ではなかったので、三次駅より高暮まで索道を張り、途中に「日下」「宮ヶ原」「沓ヶ原」の3カ所に駅を設けて中継した。三次からはセメントや生活物資を、「日下」からは砂を積んだ。
「沓ヶ原」までは運搬機1台にセメント5俵、沓ガ原から高暮へは7俵を積んだ。約50米ごとに積出し、毎秒2米の速度で運んだ。積雪で道路は輸送ができなくても索道は運転ができるので、工事の主役であった。
沓ガ原ダムの砂は「日下」から送られてきた量で大体まかなうことができたが、高暮堰堤の工事には絶対量が足らなかったので、沓ガ原索道の上に大製砂場をつくった。高暮ダム上流にも製砂場がつくられた。砕石や索道には70馬力のモーターが使われたので、ものすごい騒音で付近の民家の迷惑は大変なものであった。
索道の柱は大半は杉材で、50米以上の高いものは鉄柱が使われた。柱のてっぺんに注油するために運搬機に乗って次の柱へとまるで猿の如く身軽な動作で作業をしていた。索道は山頂から山頂へと張ってあるが、ところによっては30度近い急勾配の所もあった。こんな所では運搬機が時々スリップしていた。重量のある運搬機だったから、煙をはき火花を散らして走りくだって、次の運搬機に突き当たり、大音響と共に落下する。このような状況が次々と繰り返され、10数台が1カ所に落ちることも珍しくなかった。このスリップ事故で運搬機と共に落ち死亡したものも何人かいた。また、柱から柱の間で運転が止まり、宙ずりのまま大声を出している姿も見受けられた。
昭和17年の年末頃には沓ガ原駅から神之瀬発電所迄、道路上にレールを敷き、電車で砂やセメントを運搬した。
終戦が近付くに従って資材も欠乏し、工事も次第に進まなくなった。だが、日発広島支店が沓ガ原に疎開したりして建物も大きく社宅も多く、人口も多く大変な賑わいであった。
-櫃田村誌より要約抜粋-